第一話
地獄の申し子
これは、私が二、三年前に九州に行ったときの話です。
昔からオランダに興味のあった私はオランダ村に行くためにレンタカーを
借りました。
長崎駅から車で50分もあれば着く、ということなので昼飯までには着くだろうと
思っていたのです。
しかし一時間経ち、二時間経ってもいっこうにオランダ村は見えてきません。
おかしいな、と思っているうちに昼になりました。
せっかくの長崎なのだから、皿うどんや、長崎ちゃんぽんが食べたいな、と
思っていたのですが、あいにく近くにあるのはハンバーガーショップばかりなのです。
仕方ないな、とそばにあったハンバーガーショップに入ったのです。
しかし、どうもおかしいのです。
その店では誰もハンバーガーを食べていないのです。
なぜか皆、鯖味噌定食や、さんま定食を食べているのです。
不思議に思った私は、女の店員に恐る恐る尋ねてみました。
「あの、ここは、ハンバーガー屋ではないのですか?」
「はい、そうですよ。」
店員は恐るべき営業スマイルでそう答えました。
あとで聞いた話なのですが、長崎では、定食屋のことをハンバーガーショップと
いうそうなのです。その時の私は、そんなこととは知らないので、
「鯖味噌煮定食」
と、言うのが精一杯でした。
「はい、鯖の味噌煮定食でよろしいですか、ご一緒に、冷奴はいかがでしょう。」
私は断りました。鯖の味噌煮定食は、鯖味噌の濃厚な味だけを味わいたいからです。
しかし、店員は食い下がりました。
「いまなら、冷奴の料金で、プリンもおまけについてきますけど?」
プリンの圧倒的な迫力、そして、その人を寄せ付けない冷たさの前に、
私はただ黙って注文するしかありませんでした。
それから私は案内された席につきました。店内は無闇に明るく、―― お昼時のせい、
かもしれませんが――一見活気に満ちていました。それが私に底知れぬ不安を
感じさせたのです。
―――不意に、私は背後に気配を感じ、振り返りました。
そこには、パネルに入った、大きなポスターの中央で笑う、一匹のうさぎがいました。
「シールを五枚集めたら、もれなく ボクのマグカップがもらえるヨ!」
うさぎはそう言いました。それは、私にここにまた来ようと思わせるのに、充分なものでした。
「鯖味噌煮定食お待たせいたしましたぁ。」
はっとその声に私は我にかえりました。 そこには、鯖味噌煮定食と、冷奴と、プリンが
ありました。女も、いました。それは店員でした。
「こちらポイントシールになっております。五枚集めていただけますとこちらのマグカップを
さしあげておりますので、またご利用ください。 」
鯖味噌煮定食と 冷奴の皿と、プリンと、ポイントシールと、見本のマグカップを
持ってきた女は、そのまま店の奥のほうに去っていきました。
それからどれくらいの時間が経ったのでしょう、気がつくと私は鯖の味噌煮を三分の一も
食べていました。
そろそろ、冷奴も食べてみようかな、そう思ったとき、私ははっとわが目を疑いました。
冷奴が妙な形をしているのです。普通、冷奴は、直方体のはずです。こういった定食屋
ならなおさらです。
しかし、この冷奴は、直方体の上の部分がもりあがっているのです。
さながら、冷奴の上に造山運動が起こっていたような盛り上がりなのです。
それに、普通なら冷奴の上には、醤油がかかっているはずです。しかしまったくかかっていません。
各自それぞれかける形式なら、テーブルの上に醤油がおいてあるはずです。
しかし、それもないのです。
おかしいな、おかしいな、 と思いました。しかし醤油なしの冷奴は考えられません。
「すいません、醤油をください。」
「あ、もうかかっていますよ。」
店員の言葉に私は耳を疑いました。一体どこに醤油がかかっているのか名古屋に白醤油というものが
あるがあれはみんなが思っているほど白くないぞ知らない間に何らかの技術革新があったのか科学
技術の進歩はたしかに目覚しいものがありますしかしここまで白い醤油が果たして作れるものなのか。
そんな思いがぐるぐると頭をかけめぐりました。私はふらふらと、ついその冷奴を口に入れました。
その瞬間、私の口の中を恐ろしい食感が襲いました。
たしかに豆腐の食感もありました。しかし、何か違うものもある、
しかし、それは私の知っている醤油とはかけ離れた、油っぽく、こくのある、ほのかに塩味もある
塊でした。
長崎県の醤油というのはこういうものなのだろう、と思ってそのまま店をあとにしましたが、今も釈然と
しません。
あれは一体なんだったのでしょうか…。
第二話
悪魔のゲオルギウス
あれは、もう20年ほど前になるでしょうか、私はその頃、病院に勤める看護婦でした。
当時、私が勤める外科病棟にはさまざまな患者さんがやってきました。
骨折、捻挫、そして醤油人間です。
千葉県にあったその病院には毎日たくさんの醤油人間が運ばれてきました。
醤油人間には普通の血液では足りません。大量の醤油が必要なのです。
そのためにこの病院の看護婦達の白衣醤油色に染まっていました。
ある日のことです。急患が運ばれてきたのですが、その時に医師から出たのは普通の指示では
ありませんでした。
「この患者には新鮮な血液が必要だから、この場で作るんだ」
たいへんなことになりました。みんな、醤油を扱うことにはなれていましたが、 一から作ったことは
ありません。看護婦達は戸惑いましたが、昔醤油工場に勤めていた萩原さんという看護婦に
作り方を聞くことになりました。
萩原さんの指示で私たちは新鮮な卵、サラダ油、酢、そして塩を用意しました。
卵と塩、そして酢を入れてよくかき混ぜ、そこに油をなじむように少しずつ落として混ぜ、
さらに最後に酢を入れて分離しないようにしました。醤油というのは意外と早くできるものなのだな、
と思いました。
出来上がった大量の醤油を患者に急いで注入しました。新鮮な醤油の効果で、
たちまち患者さんは私たちにオクラホマスタンピートをかけるまでに回復しました。
初めての醤油作りに奮闘した私たちの間にさわやかな感動が生まれました。
みんなでさまざまなことにチャレンジする、なんと素晴らしいことなのでしょう。
毎日たくさんの患者さんに接してきましたが、あの患者さんだけは忘れられません。
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