第一回講座


正徳年間という時代

正徳年間、この時代は一般の方にはあまりなじみがございません。
前には第五代将軍徳川綱吉、後には第八代将軍徳川吉宗と、
個性のきつい将軍に鋏まれた時代でございますゆえに、
なおいっそうその時代の印象が薄らぐものと思われます。
しかしこの年代は表面こそは穏やかではありますが、
激しい時代の渦が水面下ではうずまいていた時代であります。
その正徳年間の状況をつかむ上で重要な事柄を
述べてまいりたいと思います。

一、六代将軍徳川家宣

正徳年間は、前将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の時代と
ともに、「正徳の治」と呼ばれた年代です。
この時代は第六代将軍徳川家宣の影響下、
間部詮房(まなべあきふさ)と 新井白石(あらいはくせき)の
主導で、第五代将軍徳川綱吉の時代に混乱した
幕府政治の改革が行われた時代です。

この「正徳の治」のレールを引いた徳川家宣は、
前将軍徳川綱吉の兄の子にあたり、子供が生まれなかった
綱吉の後継者として、綱吉の後を継ぎました。

綱吉は、家宣の父綱重の死により、将軍を継ぐことができました。
当時の長子相続の原則からいいますと、本来なら将軍の
後継者は家宣です。
しかし綱吉は自分の子に将軍職を継がせることを強く希望し、
長男が生まるようにとの願いをこめて「生類あわれみの令」を
出したことはあまりにも有名です。
また、娘の鶴姫を嫁がせた紀州徳川家の綱教を後継にしようとも
しましたが、 鶴姫が子供を産まないままになくなったために
その希望もなくなりました。
このように家宣は綱吉に望まれて後継となったわけではありません。
そのためか、綱吉が「いつまでも続けるように」と遺言した
生類あわれみの令を綱吉の死後すぐに廃止するなど、
綱吉の政治をことごとくくつがえす政策をとりました。
また、生来の真面目な性格もあり、綱吉時代の放漫な政治が
我慢ならなかったのかもしれません。

家光、家綱、綱吉の時代から幕府財政はいよいよ苦しくなり、
社会では年貢米中心の経済が、商品経済へと移って行きました。
時代は改革を必要としていました。
家宣は改革を推し進めましたが、正徳二年に亡くなりました。
その後を継いだ四歳の将軍、徳川家継(とくがわいえつぐ)を補佐し、
家宣の改革を受け継いだのが間部詮房(まなべあきふさ)と
新井白石(あらいはくせき)です。

二、間部詮房と新井白石

家宣の死後、将軍の位は子供の家継が継ぎました。
しかし、家継は将軍に就任したのが四歳、この正徳四年の段階で
わずか五歳、しかも病弱であったために、実際の政治は老中などが
中心となって行われました。
中でもこの時代の重要な政治家は、
前将軍徳川家宣の側近であった
老中格側用人間部詮房と儒学者新井白石です。

間部詮房はもともと能役者の子として生まれましたが、
当時甲府藩主であった家宣の側近となり、家宣の将軍就任後は
老中格の側用人となり、家宣の最も重要な側近となりました。
家宣の死後、家継が将軍となると老中政治の中心となり、
幕府の実際の舵取りをしておりました。
しかし、成り上がり者との批判も多く、世上では家継の生母
月光院との間を噂されたりもしました。

新井白石はもともとは一介の在野の儒学者でしたが、
甲府藩主時代の家宣に仕え、家宣の専属講師となりました。
儒学者としての深い教養などをもととし、
武家諸法度の改正、貨幣の改鋳などの幕政改革を
おしすすめる徳川家宣のブレーンとして活動、家宣死後は
間部詮房とともに幕政の中枢で活動しました。
また、 ヨーロッパ文化への理解も深く、密航宣教師の
シドッチなどからヨーロッパ事情を聞き、『西洋紀聞』を
著すなど、単なる儒学者の枠にはおさまらない学者でした。

当時の政治はこの二人が主に政治の主導権をとっていましたが、
一方で幕府内部には彼らに反対する動きもありました。

三、幕府内部の反対勢力

さて、幕府の政治を考える上で重要なのが、
譜代大名(ふだいだいみょう)勢力です。
当時の幕府の政治の中枢である老中、大老、若年寄(わかどしより)には
譜代大名しかなることができませんでした。
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えてきた家臣の子孫である
譜代大名は、幕府の中心としての意識が強く、それだけに
プライドも相当なものがありました。
それゆえに成り上がり者である間部詮房や新井白石への
反感は根強いものがありました。
譜代大名勢力である老中達やその他の幕府官僚は
幕府内の実験を取り戻す反撃の時を狙っていました。

そしてもうひとつの重要な反対勢力が大奥です。
当時将軍家継は幼少のため、ほとんど大奥で生活していました。
したがって大奥の政治への影響力はたいへん大きいものでした。
その大奥の中でも最大の勢力が、家継の生母月光院です。
間部詮房・新井白石ラインの政治体制は月光院が支持した
ために維持されていたといってもよいでしょう。
しかし、大奥にはもうひとつ大きな勢力がありました。
前将軍家宣の正室、天英院の勢力です。天英院は家宣の子を
産めなかったために大奥の主導権を握ることができませんでしたが、
前将軍の正室という権威は大変なものでした。
それだけに月光院勢力と常に対立していました。

当然ながら、この譜代大名勢力と天英院の勢力は
「反間部詮房・新井白石・月光院」で結束します。
それが将軍の後継問題や絵島事件などとからんでくるのです。

四、「絵島事件」と反対勢力

この時代は大奥の勢力が大きかったということはすでに述べましたが、
その大奥で正徳四年に起こった大事件が「絵島事件」です。
この事件は月光院付きの中老、絵島が歌舞伎役者生島新五郎の
出演する山村座の芝居見物をし、帰りが遅れて大奥の門限を
やぶったというものです。
この事件で絵島はお預け、生島は八丈島に流罪、絵島の親類縁者は
死罪をふくむ厳罰に処され、山村座は取り潰しになります。
1000人以上にものぼる処罰者を出したこの事件は、その規模にも
かかわらず、事件発生から処罰までわずか一ヶ月という異常なものでした。
また、当時大奥の女中が芝居見物をすることはよくあることであり、
少々の門限破りもないことではなかったようです。
それがこのような大事件とされた背景には、
やはり月光院と天英院の対立があります。
月光院の側近である絵島を処罰することによって、月光院・間部詮房・
新井白石ラインの勢力をそごうとする、天英院と譜代大名勢力の陰謀で
絵島事件はここまでの大事件にされた―――。その説が有力です。
この対立は、病弱な将軍、家継の後継者問題にも大きく関わってきます。

五、将軍継嗣問題

家継は幼少で病弱で、当然子供もおらず、将軍の後継者がいませんでした。
家継自身が後継者を決めることはできず、当然ながら後継者の問題が
発生しました。
徳川宗家にはもはや家継以外将軍を継げる男子はおらず、
いわゆる御三家の尾張家、紀伊家のどちらからか後継ぎを探さねば
なりませんでした。
家継の父、家宣は将軍後継の際のこともあり、綱吉と縁の深い紀伊家を
こころよくは思っていませんでした。
また、尾張家と紀伊家では尾張家のほうが格が高く、この後継者問題は
本来であれば尾張家が有利です。
しかし、天英院と譜代大名勢力は、紀伊家の徳川吉宗を後継者として
強く推しました。それはなぜでしょう。
確かに吉宗は紀伊家の財政を立て直した有能な人間です。
しかし当時は能力で将軍になるものではありませんでした。
天英院と譜代大名勢力が吉宗を推した理由はただひとつ、
月光院・間部詮房・新井白石ラインへの抵抗です。
本来であれば後継者争いに不利な紀伊家の吉宗を推すことにより
吉宗に恩を売り、吉宗が将軍になった後にも天英院たちの影響力を
残すことができます。
そういう形で月光院たちとの勢力争いに勝利をおさめようとする
天英院・譜代大名勢力と月光院・間部・白石勢力の水面下での
争いは日々激しくなっていきます。絵島事件がその争いの代表格です。
正徳年間とはそういう政界の暗闘が繰り広げられた年代といえるでしょう。

(参考文献 中公文庫版・日本の歴史17)

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