第二回講座
知られざる忍者〜平戸忍者〜 講談や読本、最近では漫画などで忍者の活躍を見られる方も多いかと 思います。しかし、忍者の実態についてはご存知ない方も多いかと思います。
その中でも伊賀や甲賀といった忍者ではなく、 肥前の国(現在の長崎県)の平戸にいたという平戸忍者に関しては まったく知られていません。
今回はその知られざる実態についてお話したいと思います。 一、平戸忍者の発生 平戸は平戸島と度島の二つの島からなり、入江が多く、
天然の良港として古来から栄えてきました。 平戸周辺を地盤とした松浦党(まつらとう)は、北九州一の 海上勢力として鎌倉時代から繁栄し続けてきました。
その松浦党の首領格であり、江戸期には平戸の領主と なった松浦氏の繁栄を裏で支えたのが平戸忍者です。 平戸忍者の祖は、伝によると、鎌倉時代中期の人物、
松浦家一門の松浦十郎直(まつらじゅうろうすなお)と いわれています。 松浦十郎は武芸百般に優れ、徒党を組み、元寇の際には 敵船に乗り込み敵将を暗殺したといいます。
むろんこれは伝説でしょうが、松浦氏が少人数の隠密部隊を 抱えていたことは、松浦氏の性格からも考えられます。 鎌倉時代から戦国期にかけて、松浦党は朝鮮、中国大陸との
密貿易を行い、場合によっては海賊行為も働くという、いわゆる 倭寇(わこう)の活動を行っていました。 倭寇は少人数で、大人数が乗った大船から略奪を行いました。
この大きな戦力差がある中で略奪を成功させてきた理由は、 一般的には倭寇が命知らずの突撃を行ったことと、日本刀の 切れ味によるものだといわれていますが、実際には松浦十郎の
指揮したような隠密部隊が船の情報を収集し、計画的に船を 襲撃したものと思われます。 松浦氏は、松浦党の団結と、倭寇活動による収益などで、
鎌倉から戦国時代にいたる動乱の時代を生き延びてきました。 平戸忍者の前身となる隠密部隊は、松浦氏とともにゆっくりと 成長しつつありました。
その性格が大きく変わる時がやってきます。 それが、ポルトガル人・オランダ人の来航です。 二、平戸忍者の変容 天文十九年(1550年)、この年に平戸にある人物が訪れます。
フランシスコ・ザビエルです。前年に鹿児島に到着したザビエルは 京都で布教の許可を得るために上洛の途中で、平戸に立ち寄りました。 当時の松浦家の当主、松浦隆信(まつらたかのぶ)はこれを歓迎し、
布教の許可を与えるとともに、平戸においてポルトガル船との貿易を 開始しました。 この時から、松浦家の隠密部隊である平戸忍者の変容が始まります。
ポルトガル船のもたらした火縄銃が戦国時代の戦術を大きく変えたように ポルトガル船のもたらした技術は、平戸忍者の性格を大きく変えました。 つまり、他の地方にはない最先端技術を平戸忍者は身につけることが
できたのです。 ポルトガルとの貿易は宮の前事件(※1)などのトラブルが頻発したため 長続きしませんでしたが、松浦氏はその後大きく勢力を伸ばし、壱岐島を
領有し、さらに豊臣秀吉の九州征伐の際にはいち早く秀吉に従い、 その勢力を確立しました。これは、戦闘能力だけではなく、すぐれた情報収集・ 分析力を松浦氏が手に入れたからこそなし得たものです。
慶長十四年(1609年)になって、平戸にはオランダ船がやってくるようになります。 やがてイギリス船も来航し、寛永十七年(1640年)の鎖国完成までの間、
平戸は長崎と並ぶ貿易港となります。 この間に平戸忍者がますます技術を高めていったことは間違いありません。 余談ではありますが、この時期に平戸である人物が生まれています。
国性爺合戦の主人公、鄭成功(ていせいこう)です。 清に支配された中国大陸に対抗し、台湾で独立を守りつづけた鄭成功の 活躍の裏には、平戸忍者の活躍があったかもしれません。
※1宮の前事件 永禄四年(1561年)、ポルトガル商人と平戸商人が商品価格の件で口論し、 双方に死傷者が出る。このため松浦隆信は、ポルトガル人の平戸からの
退去を命じた。 三、泰平時代の平戸忍者 戦国の動乱期が過ぎ、鎖国令により密貿易も困難になると、
平戸忍者の活躍の場は無くなったかに見えます。 しかし、実はここからが平戸忍者の本領が発揮されるところです。 1691年、松浦棟(まつらたかし)は幕府の寺社奉行になります。
外様大名である松浦家が、幕府の要職である寺社奉行に 就任することなどは本来考えられないことです。任命した 徳川綱吉の異常な抜擢ともいわれていますが、松浦家の
情報収集能力、つまり平戸忍者の力によるものだという説も あります。松浦氏がその後、減封も除封もされずに生き延びた裏にも 平戸忍者の活動があったということは想像に難くありません。
また、明治維新の後、華族に列せられる際、松浦氏は伯爵と なっています。本来の基準では松浦氏は子爵にしかなれない はずでした。この異例の措置は、明治天皇の祖母が松浦氏で
あったことに配慮したためともいわれていますが、他にない平戸忍者の 存在がものをいった可能性もあります。 このように松浦氏とともに生きた平戸忍者ですが、平戸忍者には
もう一つ大きな活動があります。 それは、アルバイトです。 当時の大名家は例外無く財政難におちいっていました。 財政難を打開する産業として松浦氏は平戸忍者に目をつけたのです。
松浦氏の命の元、平戸忍者は小銭をかき集めるために活動しました。 たとえば幕府の命を受けた他藩の動静調査、犯罪人の捜査、 埋蔵金の発掘、道の小銭の探索などです。
本作品の中で触れられている平戸忍者の活動は、このアルバイトに 該当するものだと思われます。 四、平戸忍者の技術 ここで、平戸忍者の使った道具や、技術を見ていきたいと思います。
・平戸刀 平戸忍者が使った刀。薄刃で、日本刀というよりサーベルに近い。 軽量なためにくのいちなどに好んで使われる。 ・網タイツ
やはりくのいちには網タイツであろう。 ・平戸すね当て 平戸人はよその人間よりすねが弱いという俗説があり、 すねを過度に守る傾向があった。
・牛棒 本来は牛をたたくための棒。隙間などに転がり込んだ小銭を かき出すのに使う。 ・手裏剣地蔵 手裏剣が当たるようにという祈願をこめて作られた地蔵。
手製なのでぱっと目には地蔵とわからない。 ・エニアック 平戸忍者の情報分析、砲弾弾道解析などに使われる。極めて大型。 稼働時には高熱を放つために江戸初期、松浦氏の居城日之嶽城とともに
燃えつきた。 ・情報収集技術 平戸忍者は情報を収集する能力が高いといわれています。 いち早く噂を耳にする能力、偶然衝撃的な現場を目撃する能力、
聞き込みをした時に相手が「そういえばあの時…」と、重要なことを 思い出してくれる能力に極めて優れています。 (参考文献・参考サイト
「平戸忍者」 飯島浩三 名報堂出版 「武帳」 平戸洸参会 篇 「平戸貿易全史」 名報堂出版 「せかいのにんじゃ」 こどものとも社
「華族誕生」 浅見雅男 中公文庫 「倭寇」 棚倉和夫 十分社 松浦史料博物館 http://island.qqq.or.jp/hp/matsura/) |