第四回講座 迷惑矢文とその実例
さて、昨今はインターネットや携帯電話でメールを使われる方も多いと思われます。 そうした時に悩まされるのが迷惑メールです。 こうしたものの源流はどこにあったのでしょうか。今回は歴史的な観点からそれを 解き明かしていきたいと思います。
一、室町期における迷惑矢文 日本中世において重要な伝達手段としては、使者、文書、狼煙などがあります。 こうした伝達手段は重要な情報をいち早く、正確に伝える目的で行なわれました。 しかし、武家が台頭し、合戦が盛んに行なわれるようになると、交戦中に敵と連絡を とり、和睦や降伏交渉などをする必要が出てきました。そうした場合に使者を立てる 余裕はありませんし、狼煙などでは細かい意思を伝えられません。そのために文書を 矢にくくりつけて放つ矢文が発達しました。 矢文が重要になれば、それだけ彼我の矢文に対する注目度も増加します。 そこに目をつけたのが中世に勃興しつつあった商人階層などです。 当時の戦と言うものには前線にまで商人が出張り、食料や武具などを商うことが まれではありませんでした。こうした商人が引札(現在の広告ビラ)として用いたのが 迷惑矢文です。 迷惑矢文の初見は、関東公方足利持氏の起こした永享の乱です。将軍足利 義教に対し反抗した持氏は関東管領上杉憲実などに攻められ、永享十一年 (1438年)に鎌倉永安寺で自害します。 この直前に憲実軍から永安寺に飛んできた矢文に、 「オ腹ヲメサルルニヨキ刀アリヤ ナクハヨウタテイタス 武」
というものがありました。 末尾の武と言うのは当時の鎌倉の武具屋の略称と推定されます。 これを目にした持氏は「サテサテ浅マシキヤカラ、憎キコトカナ」と怒り、大いに 迷惑がったとされます。(関東後乱記) この後は赤松満祐が将軍足利義教を討ち、播磨地方で挙兵した 嘉吉の乱においても赤松満祐の陣に 「ヨキ南朝ノ後裔アリ」「惠源サマ(足利直義)御身内アリ」(嘉吉) などと、合戦の旗印を斡旋する矢文があり、実際に 赤松満祐は直義の養子直冬の孫、義尊を将軍として擁立したことから、 迷惑矢文が効果をあげることもあったことがわかります。 こうした迷惑矢文が大きく発展することになったのが応仁の乱です。 応仁の乱は東軍と西軍が入り乱れ、また各地から上洛して戦った大名や、 新戦力として現れた足軽などの多種多様な人間が京都に殺到し、11年間に わたって戦い続けました。 そうした多様な人間に対応する多様な矢文が、双方の陣に放たれました。 たとえば以下のようなものです。
・京都の寺社の観光案内 ・京漬け物や京菓子の引札 ・地方人と見られない京都人完全マニュアル ・ぶぶ漬けを食べていかないかという誘い しかし、この時期の矢文には品質の低下が見られ、案内した寺社がすでに 兵火で焼け跡になっていたり、京菓子は砂糖が伝来していないのでいまひとつ 甘みが足りなかったり、ぶぶ漬けを食べに行ったところ影でこそこそ田舎もの 呼ばわりされ陣に箒をさかさに立てられたりと、矢文の内容を信じたために 被害にあう足軽や守護代や守護大名などが続出しました。 このために徐々にこういった矢文が迷惑なものとして認識されるようになって いきます。
二、戦国期における迷惑矢文
戦国期になり、日常的に各地で兵乱が起こるようになり、また貿易などの 発展により商人階層が増加していきますと、自然に商人の宣伝活動も 活発になっていきます。迷惑矢文が最も発達したのがこの時代です。
商人が自衛のために堀を作り、浪人を雇い入れ武装した自治都市堺には 堺衆と呼ばれる豪商が多数生まれました。 近畿地方は商業の中心地であり、また将軍家をめぐり細川、三好、畠山、 六角といった諸大名がいつ果てるともない戦いを続けていました。 三管領の細川、畠山、そして細川家の重臣であった三好、また近江源氏の 名門である六角は、京都に深い縁を持って活動をしていたために極めて 洗練された感覚を持っていました。そうした大名に対しては、なまじの矢文では 効果がありません。商人側は知恵をしぼって新たな矢文を考えました。
・鏑矢に矢文をつけた音のでるメロディ矢文 ・大木に矢じりをつけた大矢文(飛ばすには至らず) ・矢自体に広告文を書いたシークレット矢文 ・新しく渡来した鉄砲を矢にくくりつけて放った種子島試供品付き矢文
また、矢文の本数も一本二本ではなく、数十本、数百本を一斉に放ち、 その効果を大きくしようとしました。細川高国と三好元長が戦った天王寺の 戦いの前哨戦であった喜連瓜破の戦いにおいて、高国方の武将、日沢左近 将監の部隊二百が、堺の豪商松橋屋の放った数万本にも及ぶとされる 迷惑矢文によって壊滅、左近将監も討ち死にをするという事件も起こっており ました。特に大きく伝えられていないことから、このような事件は決してまれでは なかったと思われます。 このような大規模矢文のほかに、ターゲットを絞った矢文も発達しました。 個人的な悩みを持つ武将にあった商品やサービスをしぼった矢文は、高額な 取引となるために商人も普通の矢文とはまた一味違った工夫をしました。
・螺鈿や漆で美しく飾った矢文 ・南蛮風にマントをつけた矢文 ・南蛮風に首の周りにびらびらをつけた矢文 ・南蛮風にから揚げにしてタルタルソースをかけた矢文
こういった矢文を大名などが一人でいるところに打ち込みます。 売り込むものも雑兵相手のものとは自ずから違ってきます。
・茶器 ・敵国の地図 ・官位・家系図斡旋 ・育毛剤 ・猿メイク ・甲州武者はこうやってたおせ!武田家完全攻略本 ・初心者でもできる簡単裏切りマニュアル ・足利義昭はどこに消えた? ・京極家はなぜ潰れないのか? ・宣教のザビエルさん ・洛中洛外図屏風コード(上杉本) ・世界がもし100人の松永久秀だったら
こうした矢文によって新しい道を見つけ出した武将も多いかもしれません。 そういった意味では歴史に及ぼした影響は迷惑どころではないのかもしれません。
三、江戸期における迷惑矢文とその終焉 江戸期に入りますとこうした武具の使用は厳しく禁じられます。 射的場などの遊び以外での弓の使用も、一秒間に二十五本の矢を放つ 矢文機も破却を命ぜられます。 こうしたために江戸期での大規模な迷惑矢文の例は、大阪冬の陣における 大阪方の一部が放った豊臣家家じまい大セール矢文が最後とされています。 豊臣家の残った財宝を売りさばいて資金に換えようとするものですが、あまり にも多すぎて張りめぐらされた堀が埋まってしまったといいます。 それ以降はほとんど例がありませんが、一部では風車につけた風車迷惑矢文 や子供に飴を持たせてこっそり渡させる知らないおじちゃんがこれって矢文などが ありましたが、主流となるには至りませんでした。 その後浦戸に来航した黒船に英和辞典を宣伝する矢文があったり、戊辰戦争で ガトリング迷惑矢文を駆使した長岡の豪商の話などもありますが、いずれも 小型で規模も小さく、矢文の時代の終焉をはっきりと人々は知ることとなります。 その後の現代の迷惑メール、迷惑長距離弾道ミサイル文、迷惑戦術核文の隆盛は 皆様の知るとおりです。
(参考文献・参考サイト 「迷惑メールの世界〜ロゼッタストーンからテレパシーまで〜」 西島洋一郎 名報堂出版 「弓道外伝」聖洋二
林農社 「扇谷八郎次〜戦国にJAROを作った男〜」斉藤洋 広告研究文明社 「ぼくゲッベルスくん」はしもと洋子 広告研究文明レツゴーコミックス
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