Q.高校の日本史の教官に聞いたところ、家継などが暗殺された
可能性があるという話をしていましたがどんな感じでしょうか。
(越後高田にお住まいのインテグラルさんのご質問)
A.七代将軍家継はわずか四歳で将軍の位に就き、七歳で死亡しました。
このあまりにも早すぎる死ゆえに暗殺などの噂が立てられるのもやむをえない
話ですね。しかし父親の家宣、祖父の綱重も病弱で、そう長生きしたとは
いえません。おそらくもともと丈夫な体ではなかったと思われます。また、
家継以外の家宣の子女はすべて三歳にならずに夭折しています。
その上当時の幼児死亡率はきわめて高く、子沢山で知られる十一代将軍
家斉の二十六男二十七女のうち成人したのが半数以下の二十五人ということ
からもわかります。そのうち三十年以上生きたのはわずか八人です。
家継が病死したというのはそれほど不自然ではないということはお分かりいただけ
たかとおもいます。
しかしながら、体の弱い幼主の時代には後宮や縁戚、幕閣の間で陰謀が
めぐらされます。その陰謀の一環として暗殺も一つの手段であった可能性はあります。
ですが、当時大奥では家継の生母月光院、また家宣の代からの重臣間部詮房の
監視の目があります。家継はこの間部詮房を父のようにしたい、常に詮房をそばに
おいたといわれています。また、高度に管理された将軍の食生活では毒殺は
なかなか難しいのです。 もちろんひそかに刺したりするのは論外です。
さて、暗殺があったとすれば、一体どのような暗殺方法があったのでしょうか。
これはあくまでも私の想像ですが、当時唯一日本と貿易していた国、オランダに
そのヒントがあります。
当時、スペイン王の後継を自分の孫にしようとするフランス王ルイ14世と、それに
反対するイギリス、オランダ、オーストリアの間で戦争が起こっておりました。
これがスペイン継承戦争です。ルイ14世はこの機にオランダの南のスペイン領南部
ネーデルランド地方(現ベルギー)を併合しようともくろんでいました。
オランダにとって、大国フランスと直接領域を接することは無論好ましくありません。
激烈な反フランス活動が行なわれました。その中で、南部ネーデルランドの反フランス派と
接触することもありました。
その流れで、フランスの支配を嫌った南部ネーデルランドの富豪がオランダに亡命する
こともありました。当時の富豪は高価な美術品なども持っています。
北方バロック絵画の雄、ルーベンスの絵画などもあったでしょう。
それらが出島貿易などを通じて日本に流入したことも十分に考えられます。
そして家継ですが、彼の生い立ちが大変孤独なものであったことは用意に推測できます。
父の将軍家宣は早くに亡くなり、大奥には同世代の友達は無論いません。
母親の月光院はいますが、自分のことをひそかに憎む義理の母親天英院もいます。
彼が心のよりどころとした間部詮房も四六時中そばにいるわけにもいきません。
家継はその心の安らぎを誰に向けたらいいのでしょう。
そうです、ペットです。当時愛玩犬は広く普及し、殿中でも飼われていました。
将軍であれば、オランダからの珍しい犬をペットとすることもできるでしょう。
そして、天英院がルーベンスの絵を買い入れた可能性も高いです。
外国から来た珍しい絵、家継も見たがるでしょう。
しかし天英院は言を左右にして見せようとしません。
そしてある12月も終わりごろの夜…。
これ以上は申し上げますまい。
(2003.09.27)
Q.那菜香姫は、「冷凍光線」とか出して
氷風呂にいつはいるかと待ってしまうのですが、
私だけでしょうか。(博士は、リアルタイムで見てないのか・・)
(兵庫県にお住まいのくぼゆうこさんからのお便り)
A.私は昭和二年(1926年)の生まれですが、
残念ながらシルバー仮面は見たことがありません。
昭和四十六年(1971年)の本放送時には四国帝大の
史学研究室に奉職していたころですが、番組途中で
てこ入れしてシルバー仮面ジャイアントと、巨大化する
路線に変更したことや、現在写真家の篠山紀信氏の
夫人であり、当時アイドルであった南沙織嬢が出演して
いたことは寡聞にして存じ上げません。
確かにこの時代の女子の名前としてはなかなかめずらしい名前と
思われるでしょうが、大名火消しとして勇名をはせた、
播州赤穂城主浅野長直が、火事現場で親を亡くした
赤子を見つけ、七回かまどにくべても燃えないという
ナナカマドの木になぞらえて、その子にななかと名付けたと
いう逸話が残っております。(丈六夜話)
漢字はこうあてたかどうかわかりませんが、それはこの作者の
想像というものでしょう。(笑)
このように、当時の女子の名前は現在に伝わりにくく、
一般的に時代劇で登場する町娘の名前は、浮世絵や黄表紙本
などにのっていたものが用いられ、また、
将軍家や大名の姫の名前は歴史書などの公的な資料に
残りますが、那菜香嬢のような藩士クラスの女子の名前は
なかなか記録として残りにくいのです。 したがってこのような名前が
なかったとは誰にも断言はできないのです。
(2003.03.15)
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