・ 概説

尊敬家とはあらゆるものに対して尊敬を払うことを目標とする、「尊敬活動」を行なうものの総称である。
明確な目的をもって尊敬家となった者は日本では江戸中期頃から現れ、大きな一流となった。
海外ではサーロインの肉にサーの称号を授けたヘンリー8世や、飼い猫に複数の称号を与えた人物などが知られるが、大きな一流を築くほどの流れはみられない。
日本ではあらゆるものに神が宿るとする原始的アニミズム的側面を持つ神道、またあらゆる生命がさまざまな生命に生まれ変わるとする輪廻転生論をとる仏教が交じり合い、社会に深く浸透したことが尊敬家の隆盛につながったとも見られている。

・ 代表的な尊敬家


大寒義龍

日本初の尊敬家としては、江戸立願寺の住持・大寒義龍(1734〜1799)が知られる。
義龍は寺の内部で俳諧と川柳を詠む会を度々開き、市井の俳人と多く交流した。また、当時勃興しつつあった国学の研究も行うなど博識で知られた。
多くの言葉を駆使する必要のある俳諧、また多くの古典にふれる国学、当時の市井にも広まっていた言葉に力があるとする言霊の思想が渾然一体となり、彼に尊敬活動(義龍自身はうやまひのおみちと称した。)をとらせたものではないかとみられる。
彼はまず来客のことを「参られの旦那様」と称した。これは客を客ではなく、主人であるとし、客に対する最大の尊敬を現したものである。また、茶菓子をお茶様のお菓老と称した。菓子の子を老(当時は老人は尊敬されるべきものの意味である)としたものである。


立願寺跡

義龍の俳諧会は徐々に減少し、参加者も少なくなったが、義龍は余った時間を著作活動に充て、初の尊敬論である「御敬論様」を著した。「御敬論様」は現在では残っていないが、尊敬活動を扱った書物では唯一にして最高峰とされ、後継の尊敬家達に大きな影響を与えた。
当時の江戸では葦のことを「よし」、するめのことを「あたりめ」、梨を「ありのみ」などと称した。これは葦が「悪し」、するめが「(博打などでお金を)する」、梨が「無し」に通じるとして忌み、代わりに縁起のよい「良し」、「当たり」、「有り」などの言葉に置き換えたものである。義龍の言葉は一見これに似たものであるが、言葉自体を忌むのではなく、その対象物をただの物であると見て敬意を示さないことを忌むことを目的としている。これが義龍の尊敬活動、「うやまひのおみち」の思想の中核である。
すべてのものに対して等しく尊敬をもつ「うやまひのみち」は、厳密な身分制度が敷かれた江戸封建体制の中で民主主義的平等主義の萌芽とも見られる。
義龍はその後立願寺を去り、大坂の豪商甘煮屋宗二(生没年未詳)の元に身を寄せ、晩年を尊敬活動の普及に努めた。現在、関西圏で飴玉のことを「あめちゃん」、稲荷寿司のことを「おいなりさん」、菅原道真のことを「天神さん」と敬称をつけて呼ぶのは義龍の影響であるとの説もある。


甘煮屋跡

義龍の没後、宗二は私塾を開き尊敬家の養成を行なったが、商売が傾いたために私塾は閉鎖となり、後継の尊敬家は育たなかった。尊敬家の活動は忘れられていったが明治にいたり、帝都日日新聞記者であった益地両徳(1853〜1932)の手で再興することになる。

益地両徳

両徳が記者を勤めていた当時は日清・日露両戦争の戦間期にあたり、行き過ぎた欧化主義の反動で日本古来の学問や美術が再評価されはじめていた。明治32年に両徳は大阪の国学者を取り上げる記事の取材の過程で、大阪の古書店から義龍の書簡の断片を入手した。当時まったく知られていなかった義龍と「うやまひのおみち」を発見した両徳は、新聞社を辞して尊敬活動のために「お尊敬様のお館」を開き、尊敬の普及と弟子の育成に努めた。


益地両徳

両徳の当初の活動は義龍の思想の後継に過ぎなかったが、明治38年に「大尊敬様となられる御私様」を著す頃から義龍の世界を超えたものが見られるようになる。
明治40年の「御様様様」、明治44年の「御続様・様様様様様」ではさらに強くなり、数多くの読者を獲得した。お尊敬様のお館には全国から弟子(尊敬家の言葉では御兄様御親様、御弟様御子様御免なさりませ)が押し寄せた。しかし、両徳の指導は厳しく弟子の半数は間もなく逃げ出し、残ったのは二人だったという。大正8年には尊敬を広めるために米国に出発したが、英語が通じなかったことや税関職員との決闘に敗れたことなどで失意のまま帰国、その後死去まで弟子の育成に努める。


両徳が税関職員を殴った新聞
(徳川黎明会蔵)


両徳の尊敬は義龍の尊敬からさらに発展、徹底したものであり、「うやまひのおみち」を「グレート尊敬御道様」として大成させたといわれる。
「大尊敬様となられる御私様」では当初猫を「御猫」としていたが、同書の中ほどでは「御猫様」となり、最終的には「御キャット様」となる。当時は英語が高級なものと考えられていたためにこのような表現になったものとされるが、これを見ても妥協せずにあくまで高い尊敬を追求し続ける両徳の姿勢がうかがえる。渡米後には尊敬をさらに深化させたものとなり、言葉を飾るだけの尊敬ではなく、本質的な尊敬を目指すようになる。「気流論」では猫は「ねっこ」となったが、これは猫の中にある高貴なものを「っ」の一文字で現した。単一ではそれは発音できないが、ほかの語と組み合わされば音となる「っ」を高貴なものとしたのは、その高貴なものが猫とともにあるから高貴なのだということも言外に示している。「十位」では猫となっているが、これは当時猫と両徳との関係がうまく行っていなかったことが原因とされるが、それでも「猫野郎」などという罵倒にならない点が両徳の真摯さとして受け止められている。


猫との和解後の「砂義堂」では「犬」となっているが、これは単なる猫が猫ではない別の本質を内包しているのだと言う示唆をも含み、単なる尊敬ではとどまらない両徳の思想の深化を示している。現在の尊敬家に両徳の影響を受けないものはなく、疑いの余地無く尊敬家最大の巨人である。



・ 現状

両徳没後の尊敬界は停滞した。両徳の元に集まった多くの弟子の半数は一時間ほどで帰り、残る二人も西勝隆平(1880〜1963)は二日後に甘くてもっちりモンブラン(尊敬家の言葉で破門)、残るc(1875〜1969)も遠巻きに両徳を見守るのみとなったために後継者が存在しなくなったためである。


壮年期、買い物に行く佐伯軍治

尊敬家の道は絶えつつあるという見方も存在するが、それは必ずしも正しいとは言い切れない。かつて義龍が作った尊敬の道が完全に絶えたと思われた際に両徳が現れたように、いつか新たなる尊敬家が誕生しないとも限らないからである。